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ルドルフ・シュタイナーやゲーテ的な人間観が どう神道によって承認され、またその逆ができるのか、 人間とは一体何なのか、かなり意味不で判り難いブログ
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何を目標にするのか―何を人生の目標に定めるのか― そういうことを考えていました。
先日、昔の仲間と話す機会があり、
「埋もれていく才能も、それはそれで美しいのではないか」という事を言いました。
そしたら「それは違うんじゃないかな」と言われました。

昔の仲間を僕は非常に愛していて、誰でも、同様に人生があって、
才能や可能性があり、今でもアイツはカッコ良かったな、なんて思う事はざらです。
だけど青年の頃の秀れた(またはクサレ縁の)仲間を一見、見渡すと、
全員がその才能を夢見たように最大限に発揮している、とは思いません。(語弊アリマスが)

自分は置いておき、ドルナッハで仲の良かった友人を考えてみても、
社会で才能を発揮しているか、というと、そう簡単にはいかないのが現状です。
埋もれている才能だらけ、と考えても支障ないとすら思えます。(個人的にです)

シュタイナーを読んでいて、「自然」の概念によく思い至ります。
毎年、大量に木の実が落ち、そこから割合的にどの位、成長する種子があるのか?
そういう事と人間を比較する事は安易ではありませんが、少し思うのは、
それ程、発揮されない魂でも、発揮されないと判るだけ、美しい、と。
青年が誰しも美しいように、乙女がいつも瑞々しいように、
才能は諦められない限り、いつも頼もしく、種子の様に【力】があり、
それそのものに価値がある―そういう気もするなぁ、と思ったのです。
芽吹くか芽吹かないかは、条件に寄るのではないのか。

だから頑張らなくでもいいし、頑張る為の”条件”が揃わなければ、
無理に意志して頑張ろうなんて思わないのが、普通だ、と考えるのも悪くない。
(それは言い訳でもあるし、でも植物は条件次第、環境次第。動物はそれ程ではない)


社会の活動で何を目標にするのか。自分の人生では何を望むのか。
そっちの方が重要なのだと考えるのですが、これまた、先日お互いに嫌らっている年配の方と
話す機会があったのですが、人間、この時代、何に幸福を見出すかは、自由でしょうが、
僕の思い描く自分の将来像と、この年配の方が重なり、嫌気がさした事があって、
自分の思い描く、または流行している、将来像がツマラナくて何を目標にするのか、
色々考えさせられました。別に将来の目標とか無くてもいいかもしれませんが、Visionすら、
何となく頭打ちだなぁ、なんて限界を感じるのです。

前置きが長くなりましたが、『聖杯の探求』から:

感覚的な禁欲が大事なのではなく、 * 現代までの通常の生き方(アンフォルタス先王)
神聖な秘密に気付くことが大事なのです。  * 聖杯や星々の文字を新しい形式で理解する事
・・・地上の職務と結び付いているものを
乗り越える可能性を見出すとき、神聖な秘密が、
純粋で無垢な心魂の力にのみ         * パーシヴァルの様な先入観のない心
現れる時代がやってきました。 

勿論パルツィファルなんて僕もワーグナー聞いて、意味深だけど、眠くなる音楽だなぁ、
と大学生の頃思っていた性質ですが、この本、第6講義目は是非読みたい箇所です。
シュタイナー関連本ではパルジファルは色々ありましたが、この講義は簡潔で◎です。

あらゆる宗教の調和を目指すものが、本当に地球に広まる信条をいつ見出すかどうかは、
各人の判断に委ねられています。自分で決断せよと、各人に委ねられています。宗教の統一と
言われるものが、なによりも私たちがここで述べた聖杯の探求から、生じるかどうかも、
各自の心魂が判断する事です。他にも多くの人々が宗教の統一について語っていますが、
それらはまったく別のものでしょう。
・・・カルマを通してキリストの霊的な行為に導かれた者は、地球の宗教の一致の、
偉大な規範となります。パルジファルはそのような者となりました。・・・

今日、西洋に現れている光に、まだ無意識に作用するキリストの力が変化した形で加わるのを、私たちは待望できます。「光は東方より」という古い言葉が、それを告げています。光と光が結び付きます。

『東方の光』*つまり西洋と東洋の結婚を、西洋は待っている、という事です。
パルジファルについてはドルナッハでも曰付きのワードです。あまりに伝説化しています。
この講義のように判るのが、本筋なのだと思います。

冒頭に私事を述べたように、「限界を感じる」というのはつまり「パルジファル」です。
人としてパルジファルであるのが一番良いのではないか、とツクヅク思うこの頃です。
”僕の中にあるEs”と捉える事も出来るかもしれませんが、この世で嫉妬が無い人が
一番ステキだと言い換える事で何か近いものがあります。世の中、嫉妬ばっかですからね。
見栄見栄です。見栄も良い事ですが、結局は虚栄であり自己マンだから半分無駄ですね。

パルジファルに共感できる人と、そうでない人ってのは決定的に違うと思います、心底。
これはシュタイナーに影響されているとかじゃなく、普通にマズイなぁと思います。
この能力で凄い人っていうのは、一瞬で判る繊細な人であって、なかなかいません。
気の使える、気付く人間とは違う能力でもあります。鈍感であってもOKなわけです。
両方を備える人はいますが。

なんか最近の近況の会話とか、形式だけの会話とか、そういう事ばっかりしていると、
つくづく人生の無駄だなぁと思います。なんかツマラナイんですよね。内容が面白くても、
人とのコミュニケーションの相互価値が低いと、内容の価値すらどうでもいいかな、と、
思ってしまったり。良い人と廻り逢うことが、人生の充実なのかと、思うこの頃でした。
「お互いが感じあえる出逢いの価値」、とでも言いましょうか。

人生学び合いな気がするのですが、色眼鏡を付けてると、パルジファルが見えない。
(良い所を探す義務はないから、気付けばいいだけだけど)
しかし人生の捉え方は色々あって、故に、価値観て本当に人間を決定しますよね。
価値観が違うと、どうしても他人と相入れないものがある事もあります。(最悪吐き気等)

パルジファルが現代に生きると考えると、例えば、あなたはどの映画を想像しましたか?
もし監督でしたら、どのように現代版パルジファルを作りますか?


オマケ
:知性を象徴する動物にパルジファルは乗っています。
馬とは知性一般を表します。人間の知恵と太古の祀り文化はトロイの木馬で表現されました。
なお”月紀(前地球時代)”では思考が発達し、叡智が発達しました。ですので古い月紀を
克服するという事は、知性を克服するという事です。それは聖書で666と言われる事と同じです。

クロノ:この本で存在形態としての時間について述べられている。(コメント追加予定)

Sibylle-Sibilla-Sibyl と Siva と非常に近いと思います。本題でもオリーブの植生に
ついて執拗に触れていますが、偶然ではないと私は考えます。
「ラテンの血」といいますが、この本ではイタリアについて述べられています。
それは南北の神の問題で、ルシファーとアーリマンが逆になっている、というものです。
イタリア(ラテン)というのは面白い国で、DIO,DIVAはとても象徴的な何かでありえます。
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