鳥居の夢を見た。良く考えたら初夢である。
最近、夢の中で、夢の内容を考える事が多く、
日常で考える事がそのまま影響している気がして、寧ろ不愉快でもある。
どうして夢の中でも考えなければいけないのか、という不条理感がある。
どういう風に夢の中に意識が溶け込んでいるのかは、次のとおり。
まずハッキリとした思考能力で対象(例えば鳥居)を考えてはいない事。
そのような状態の中でマドロム故、夢の形象の無限地獄(?)へ進んでいく。
思考で問題を解決できない夢の中で、無理やり思考している感じなのだ。
だからこういう形で謎解きはできない。多分、魂の思考する部分が、
考える対象を求めている印象を受ける。無駄だろうに。
脳の無い人間(/動物)が、知的な構造物を消化しようとしている感もある。
一方、面白い話として、昔の中学・高校時代のある友人Sの話をしておこう。
彼(S)は夢遊病の癖があって、一度は起きて気付いた時には窓枠からまたいで、
半分体を三階から乗り出していたという事もあったという。
彼はどちらかと言うと、寧ろ、夢遊病の危険さや怖さを当時強調していた気がする。
彼は私に夢のコントロールについて教えてくれたが、彼曰く、夢を見た状態で、
夢に気付いてコントロールしてやり放題する、というものだった。私もそれに
興味を覚えて、コントロールを意識し始めたが、これは難しく、微妙な場合もあり、
今はそういう気は起こらない。あと二度寝の夢への効果についても話していた。
もう一つ、その友人の御蔭で青年期は、夢ならず映画までも興味を持ち出した。
だからシュタイナー選集の横尾忠則とか、淀川長治(”さよなら”×3の映画解説者)は、
もうずっと18・9の頃から好きだった。2人の対談集はオドロしくて面白い。
夢遊病はシュタイナーによれば、意識魂の作用であり、今考えればその友人は、
なかなか進歩的だったと思うけれど、当時は家まで毎日迎えに来てくれて、色々と
お世話になった有難い人だった。。ちなみに「夢遊病」と「夢のある眠り」は共に、
魂が木星(領域)と土星(領域)に(あえて言うけれども)飛んでゆく、行為であり、
そう考えるとなかなかロマンチックな行為だとも思える。夢遊病というのは私自身は
周囲で体験した事が無い為、どうしてもオドロオドロしい連想もしてしまうが、
シュタイナー的には(疲れの)癒しがこの土星領域と木星領域で行われるようだ。
だがこういう夢の中でも、
何かの解釈(思考?表象)を行っている自分というのは、
本当に忙しい奴であり、最近はむしろ嫌になる。
人間なら考えざるを得ないけれど、
しかし畢竟、それが何だろう!
何の得になるんだろう?
誰の為にしているのだろう?
そう考えると、馬鹿らしい。
少年の時から青年期にかけてずっと、
考える事が世界への解決だと思っていた。
今はそうは思わない。本当にそれは
趣味になってしまう気がする。残念な結果だ。
本当は考える事は人間に翼を与えるような、
そんな気がする。思考のない翼は本来的ではない。
ただ、本物の思考という物は存在している。
こういうBlogの書き下しは影の思考であって、”生命”に満たされていない。
シュタイナーが思考についてああだ、こうだ五月蝿い(*1)のも、この点である。
精神的な人は思考や夢が、本当は天使のような実在(光)なのだと知っている。
しかし人間は思考という影しか現在の所、見ることはできない。ギリシア人の言葉
『影の国で王となるよりも、この世で乞食になった方がマシだ』が、逆の意味で、
響いてくるが、『影の思考の王となった所で、何の意味も無い』とも云える。
だが僕はそういう言葉を吐きながら、ゲヒゲヒと笑う、あのゲオルゲ・マイヤーのようには
なりたくもない。影(学問)など何の役にも立たない。霊界の影など、ゴミのようなもの。
なんというか難しいことだ。
(*1)
(ちなみにシュタイナーを理解する為には、『自由の哲学』等の思考部分を理解すべきだ、
という人智学者はたまにいる。そういう論調で周りに理解を強調し、周りの善良な他人を
悪し様に言う”思考家”に限って、「では貴方は思考を体験したのか」、と言いたい。
先日「京都学派・・・」の本の中で大村ナントカさんを非難している河西氏がそうでない事を
期待するが、そもそも「思考」について知っている人とは、寧ろ、アントロという狭い範囲で
活動する必要はそれ程ないと思われる。ドルナッハにもこう言うネガティブな人は居た。
逆にポジティブに捉える人もいて、それはまた生き方で判る。寧ろ思考についての尊重は、
神秘学概論>神智学>ファウスト、の講釈に必然的に繋がる霊性を求める気がする。)
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