秋、最近は特に気持ちいいですよね。
今週(今日)は紅葉散策など、遠出なども良いのではないかと思います。
さてニーチェ、と聞くと大概の人の対応が別れると思います。
かなり引く人、かなり乗る人、です。
高校や他の学校で哲学の時間でしかその名前を聞いたことが無い人や、
知っているけどその激しさに拒否感がある人、かなり引く人に入ると思います。
一方、ニーチェを支持する人も少なからず存在しています。その反逆精神に、
共感する人など、学園闘争時代にはかなり学生に指示されたと聞いています。
(ニーチェでは駄目で、より後期の人物を、という人は結構漁っている人でしょう。)
ともあれ、シュタイナーは『ニーチェ馬鹿・ゲーテ馬鹿』と言われましたが、
シュタイナーの人生に大きな影響(つまりシュタイナーの興味そのもの)を呼び起こした人物、
であることに変りありません。ニーチェの存在とは一般的に言ってどうなのか?
どうアントロに関わってくるのでしょうか?ニーチェの個々の発言がどのようだったのか?
そういう事にアントロの世界観自体が答えられなければならないはずです。
しかし一方、アントロの中では、『ニーチェ』に対する評価は一定しません。
ニーチェに関するシュタイナーの前期著作『Friedrich Nietzsche -
ein Kaempfer gegen seine Zeit』はあまりにも表向きすぎます。
日本でカルマ関連以外で邦訳になっているのは、『神殿伝説と黄金伝説』の一部でしょうか、
シュタイナーはその中で、ニーチェの『黄髪の野獣』に触れています。ニーチェが理解し、
同時代人が理解できなかったイメージです。それをシュタイナーが評価しています。
シュタイナーは、初期の著作で、このニーチェに賞賛をあげた。この『ニーチェ -
反時代的闘士』の後半、(シュタイナーの自伝からの引用として)、ニーチェの
”アポロとデュオ二ソス”の解説が登場する。
『アポロはニーチェにとって自然科学の原型からの素材だったことでしょう;
デュオニソスは自然力のように作用しているということだったのだと思います。
しかしそこでアポロの美は触されます;そこでデュオニソスの衝動(世界運動)に
無力化されしまったのです。
ゲーテは自然現実(現象)の中に霊を見つけました。
ニーチェは彼が夢見た自然夢の中で、霊-神話を失いました。』
(拙訳です:日本語訳が既に絶版になっています。再版を望みます。)
シュタイナーはニーチェとゲーテをこの様に自伝の中で比較しているわけですが、
とはいえ、ニーチェの見た夢もあながち、なのです。未来と人間を写しています。
その映像としての価値、そしてカルマから継いだ軍神のような気合やその『強さ』は
やはり巨人だとしても良い、何かがあります。未来への鋭さ・激しさにおいて。
ニーチェも同様に、世界の形象を、呼吸しています。それが”超人”や”アポロ・デュオニソス”
等の形象なのです。ではその形象が何を意味しているのか?それが直接理解できなければ、
私達にとってシュタイナーやアントロポゾフィーはきっと借りてきた教科書にしかなりません。
最近、気になるのはそういう世界の形象です。形象、例えば、インドのスーリャ((太陽神が、
東から7頭の金色の巨大な馬と馬車で、壮大に世界を駆ける姿))だったり、世界の”猫”だったり、
色々と形象(イメージ)が気になります。
そういう意味で、霊性と物質、アベルとカイン、アポロとデュオニソス、、、色々あります。
アポロが物質、デュオニソスが自然力、と言われても、その経過が理解できないと、
我々に意味を持ちません。同様に、他の形象にも意味があり、それが気になってきます。
そして今日の引用は、ニーチェの「ツァラトゥストラ」の龍と獅子です。
龍とは何でしょうか?その爬虫類の形は以前、地球に存在した恐竜にも似ており、
数々の民族伝承に記憶されています。神道で竜神がどう扱われているか、はさておき、
とにかく、超神獣的な扱いを受けています。
獅子のモチーフも多くあって、古代バビロニア等、既に古くから伝承されています。
日本の神社でも獅子・狛犬として知られています。獅子は、勇気、心臓、そういうのを
イメージされると考えるのも近年では正統でしょう。シュタイナーが心臓や、咽喉は
将来発達する器官としています。獅子と龍と言えば、中国風水の白虎と青龍もあります。
これも西が白虎、東が青龍というのも何だか、嘘の様に整合が取れています。
日本の着物・襦袢とか美術品に、描かれた白虎と青龍も風水の影響ですが、
何故そこの部分だけピックアップされたのかという背景もなかなか考え深いでしょう。
さて、ニーチェでは人間の精神の発達に関連して、こういう考え方が示されています。
龍=価値というものが既に決定しているもの。権威主義。
獅子=権威主義から自分の主権を獲得するもの。自己主義。
こんなに簡素化してツァラトゥストラから抜粋して当然良くないとは思いますが、
とにかく第3の者(完全なるもの)が出現する経緯(前提)についてこう描かれています。
ーーー以下<書きかけ>
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