Blogの書き方を今後は改新していく予定です。
厄介でしょうが、先日の「東方の霊界の叫び関連」の続きはやらなければなりませんけど。
こういうのは本当は大学なり、研究なりで、イチイチ発表するべきなのですが、
そんな事をしていたら、遅いので、書いていきます。というのは日本の神道運動の
帰結が、アントロポゾフィーで立証されていく重要な意見と検証であるからです。
私の記述が「少ないながらも神道理解と日本文化の為にお役に立てば」と、放言します。
ですのでちょっと今回から丁寧に記述します。
さてルドルフ・シュタイナ-という西洋の人物は、工科大学を卒業して最初はゲーテ研究家、
次にニーチェ評論家、それに家庭教師やそもそも哲学研究を経て、色々な準備の元に、
神智学(人智学)を世の中に語り始めます。彼の全集の略はGA(Gesamt Ausgabe)です。
そのGA(全集)233番のタイトルが、「人智学の光の元、人霊の認識の基、としての世界史」
「Die Weltgeschichte in anthroposophischer Beleuchtung und
als Grundlage der Erkenntnis des Menschengeistes 」です。
ググッって下さい。日本語訳のページが出ます。それは好意で成り立っている訳文です。
そのページの次のシュタイナーの発言は教派神道に大きな影響を与える筈です。
それを僕が、(1924年正月の講演の)独文を挙げて、仮にもう一度和訳してみますね。
『Nimmt man eine Menschenwesenheit,die nun nicht aus westlicher Zivilisation,
sondern aus qestlicher Zivilisation entsprungen ist, mit auf jener Wanderung,
die ich charakterisiert habe, auf der man beobachten kann die schlafenden Menschen
seelen Vor dem Hueter der Schwelle, nimmt man eine solche oestliche Menschen-
wesenheit mit, dann kann man von ihr die Geistworte wie einen furchtbaren Vorwurf
gegenueber der gesamten westlichen Zivilisation erheben hoeren:
Seit ihr,wenn das so fortgeht, wird schon, wenn die Menschen, die heute leben,
neuerdings in einer Inkarnation auf Erden erscheinen, die Erde barbarisiert sein.
Die Menschen werden ohne Ideen, nur noch in Instinkten leben. So weit habt ihr
es gebracht, weil ihr abgefallen seid von der alten Spiritualitaet des Morgenlandes.』
『...もしそのような東の人間性を取り上げるなら、東の人間性から発せられる、
まるで西の文明の総体に向けられた一つのおぞましい警告の様な、霊言を聞く事ができる。:
君達は、もしこのままの事態が続くなら、もし今日生きる人類が地上に新しく輪廻して
現れるなら、地球を野蛮化させてしまうだろう。人間は理念(思考)なしに、本能の中だけにしか、
生きれなくなるだろう。それ程までに君達はこのような状況をもたらしたのだ。
というのは、君達がモルゲンランドの古い精神性から下落しているのだから。』
これはハッキリと腹に入れるべき言葉です。アントロポゾフィーで、まず知っておくべきなのは、
日本人としてはこういう事です。それが僕の行動する意味です。「教派神道の一連の流れ」が、
「シュタイナーの霊的な探求結果」と完全に同一ラインに立っているのです。各宗教で語られた、
御筆先と当時呼ばれたものが、大筋でシュタイナーのこの講義と一致するのです。
モルゲンランド、つまり東洋です。彼の東洋の定義というのは若干、解釈の問題があります。
また無意識の秘儀参入に関して、現在人の魂は今、唯物論で眠っていると述べています。
僕は長年、シュタイナーと教派神道、の類似性を疑い続けてきました。真実は一つです。
そして日本の古代観、そして日本の裏の歴史、そういうものとシュタイナーは一致するのだと、
確信しています。それは日本の歴史が改竄されている事はもとより、世界の歴史すら、私達は
よく知らないのだ、という事に行き当たります。
さて、人間は何故このようになってしまったのか?どこを基点にして正しく回復できるのか?
その基準というものが少なからず必要なのだと思っています。それはシュタイナーでいいし、
他のものでもいいかもしれない。しかし東の文明もまた、何故こうなったのか。まさにアベル
が殺されたように、です。
+後半です。全然別の話題になります。多少プライベートになります。
「人生で起こった不思議な出来事①」として書いておきます。
さて人生で起こった不思議な事、それは色々あるでしょう。
ダウンタウンの松本人志が過去、浜田か別の1人を選ばなければならなかった事があった、と
言ってました。そういう意味で書いてみてもいいかもしれませんが、僕は16歳の時、ある隣の
クラスの友人にニーチェを薦められた時があり、それは不思議だったという感想です。
僕は何か特異な物に注目する癖が昔からありました。それは斜めに見るといえばいいのか、
普通はまともな人は正面から見るのに、僕は横から見ていて、正面の不完全さをいつも、
笑うのです。そのギャップが面白いからです。モノは正面と横では見え方が当然違います。
同じ様に、世の中というのは、何か不完全で、ブラックジョークにあふれており、評価という
ものが一定しないのではないか?と感じていたからに他なりません。
そして正規の見方からこぼれたものが僕には愛しいという、狂気なのですが理屈のある、
趣味になっていました。そして高校1年の時、隣のクラスのコンニャクのような友人を、
僕が自分のクラスに全く関心が持てない放課中に、教室の裏手で発見したのです。
それは友人であるというより、グロテスクで、妖しい、納豆とハウスミュージックを混ぜた、
秘儀参入者(笑)だったのかも知れません。僕は実際は彼の友人ではなかったのです。
話した事も数回しかない。でも僕の人生で一番決定的だったかもしれない程の変化であって、
しかもとても怪しい奴でした。僕は平常の人間で彼以上に泥酔しているように演じる人間を
まだ見た事がないし、それが彼のキャラなのです。コンニャクの様に歩くのです。
明日紹介する本で「無意識の秘儀参入者」に触れますが、彼は無意識ではないし、
意識しているのかも判らない。しかし僕がどんなドルナッハにいる人間よりも彼の方が、
確実に『賢い』気がします。今でも。ドルナッハに関してはいつか書きますが、まず、
彼は底が見えず、そして説明もしないし、いつもクラスでゴミの様に不潔であったり、
だらしなかったり、そういうのを演じているのです。彼は全く人気者の【浮浪者】でした。
僕は高校1年の時、入試の簡単な高校に入ってしまい。今でも後悔すべきかも知れませんが、
当時はそのせいもあってか、クラスがつまらなく、誰かとつるんだりして、大変な時期でした。
このニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』と出会い、むさぼる様に、納得しまた笑いました。
当時、僕は本をよく読みましたが、これは心への救援策というのか、外部に基準を求めずに
済んだ体験です。当時、ニーチェの様な事を話す人間は誰も僕の周りにはいなかったです。
だからこそ、僕にはこの本は必要でしたし、今でもまた、この本はある意味、本物なのです。
彼のこの本の副題にはこう書かれています。 『誰にでも読めるが、誰にも読めない本』
ニーチェの直感は強ち間違ったものではないかもしれないのは先日話したとおりで、
この本の中にはそれこそ象徴が数限りなく入っています。それは一つの世界です。
ニーチェ自身ではなく、彼の作品の中の自分、彼の作品の中の永遠、に価値があります。
シュタイナーの言うように人物崇拝というのではないし、僕は作品崇拝だと思えます。
ベートーベンと第9が切り離されても成立するように、作品も時代を呼吸しているからです。
僕のBlogが重要ではなく、僕を通した、貴方が僕の中にいるとは思いませんか?
こういう事は学問的に定義しようとすれば,難しいでしょう。カンディンスキーの絵の様に、
主観と客観が入り混じる事になるのかも知れません。それは学問世界では失敗しています。
人生で起こった不思議な出来事という題は、
最近東京で私がショッキングな出来事があったからで、
不思議な日が1日あって、朝から見た事のない大きめの黄緑の鳥(南国産)が鳴くのです。
東京って変な所だなぁ、誰かが飼っていたのが逃げたんだなぁ、と思ったのですが、
そういう変な日が始まって、昼には初対面のイギリス人のオバちゃんと散歩したり、
特にその日は午前も午後もとても重要な用事があって、精神的にも厳しい日でした。
しかし不思議な日だったと思わざるを得ません。何かが背後でいつも動いていた様な、
気持ち悪くも予想のつかない日でした。
ま、そういう重要なのにも関わらず「変な日」というのは私はとても印象的でした。
そういう不思議な出来事を人生で振り返ってみて、思い当たるのが今日のコンニャクの彼、
です。ニーチェが無ければ僕は生きるのが人生で難しくなったかも知れません。
そういう危機であって人生の分岐点でした。
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