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ルドルフ・シュタイナーやゲーテ的な人間観が どう神道によって承認され、またその逆ができるのか、 人間とは一体何なのか、かなり意味不で判り難いブログ
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シュタイナーのキリスト観は、彼の新説である『第五福音書』を読んでみて下さい。
シュタイナーはマルコ・ルカ・ヨハネ・マタイの4つの福音書を統合する霊的な観点から、
イエスが2人実在し、実に複雑な過程でキリスト(太陽神霊)を受け入れたと主張しています。
この本は、(私は大学生の時ですら)非常に読み易かったので、お奨めします。

私はルカ福音書が昔から好きでしたが、今『ルカ福音書講義』を読んでいます。
何故福音書を読むのか???  ...しかしそんな理由が必要でしょうか?

まず、僕は全然キリスト教信者でもないし、キリストを信じていません。
信じるとは一体何を意味しているのか?何故信じる必要があるのか?疑問です。

信じるとは推測する事なのか?それとも合理を飛び越えて確信する事なのか?

合理を飛び越えて確信できる事には、必ず理由がある筈です。何かを合理性なしに
確信できるというのは、むしろ才能です。それは合理性と同じ事です。
合理的であることが才能(能力)であるのなら、超合理的なのも(理由ある)才能であり、
能力としては同格(カテゴリの違いであって並列)だと思うのです。

つまり超合理性に至るには、現世ではないにしても、並みの努力じゃない条件が必要だ、
と考えるならどうでしょう? 信仰心とは努力によって獲得されたものだとしたら

だから信仰とは人間の複雑な営為の結果である可能性を考慮するなら、
合理的である事は、信心深い事の優位に立つとは断定する事ができません。

しかし合理的である事と信仰そのものには能力的な飛躍があると考えるなら、
合理での努力は信仰とは別の課題を持っていると私は考える事ができます。

だからこそどんな宗教でも、合理的な関心から読んでいけない事は無い筈です。
信じていようといまいと、理解は出来るしそれは○○教だけの財産ではないのです。
普通に聖書を読んでどこが悪いのか?尊敬したり評価する事は個人的な事です。
もしそうでなければ、個人的に判断せずに他人に評価を依存する事になります。

仏教とかも本当に難しいです。しかし読む事と評価する事は別であって、
素人でも、誰でも、読むことは出来る。納得していけば問題ない筈です。
ニーチェの確か「誰にでも読めるが誰にも読めない本」という言葉を弁えているなら。

自分にも関わる事なので、限定した範囲でのみ、ブログで宗教に触れたいです。
合理でも信心でもなく、僕は触れた事実だけの狭い範囲でやってみたい。。

ゲーテなどは感覚する全てを世界探求に当てよ、と述べています。
悟性の力は適用範囲があり、死つまり何らかの穢れが潜んでいる可能性があります。

予定を変更し、『ルカ福音書講義』のキリストの信仰の部分について触れます。

『ルカ福音書講義』より
(西川訳に拙訳を加えて、キリストという表現をⅩ(彼)として書き直した)

彼は…あふれ出るほどの愛を持っていて、健康になりたいと思っている人々に
その愛を注ぎかけたからです。「立って歩きなさい」とか「お前の罪は許された」
という言葉は、彼の愛にあふれた内面から発したのです。
彼は自我の容量からあふれ出た愛の言葉を語ったのです。
そして、少しでもこの事実に満たされた者を、彼は信者と呼んだのです。*1
このような考えのみを、私たちは【新約聖書における最重要である】
信仰という概念に結びつけるなければなりません。*2
信仰とは、自分を超えていく能力、自我が行ないうることを超える事です。
ですから…彼は、「どうすれば自我は完全なものになるか」ではなく、
「どうすれば自我を乗り越えられるか。
どうすれば自我はみずからを超えることができるか」を教えたのです。

彼はしばしば簡単な言葉で語りました。…
『…返ってこないことを知っていて与えたなら、それはほんとうの愛からおこなったのである。
それは自我を包み込む愛ではなく、自我を解除する、あふれ出る愛の力である(6章34節)』

と、彼は語ります。さまざまな仕方で彼は、いかに自我はあふれ出るべきであり、いかに自分を
脱した感情によって世界で働くべきかを語るのです。

…心からあふれるもの、心に包みきれないものを口が語るのです。…「自我から信仰の力が
溢れ出る。その力から語るのだ。そうすれば、おまえの言葉は彼の力を含む」という意味です。
「心から溢れ出るものを、口が語る」 これがX教の本質です。

X信仰とは自我の完全性を超えて、自我を崩壊させる力、つまり愛であって、
さらに彼の信者とはそういう事が少しでもできる者だ、という事ですね。

*Und die,welche sich ein wenig mit dieser Tatsache
erfuellen konnten,nannte der Christus Glaeubige.
Nur diesen Gedanken muessen wir jetzt mit dem Begriffe des Glaubens
- einem der wesentlichsten im Neuen Testament - verbinden.

つまり良く判るのは『第五福音書』でイエスが察知した諸問題以外にも、
キリストの使命というのは、当時のギリシア的知性の完璧さを
愛という別のものに進化させるという一種の自然進化論なのだという事です。
ここに、月と地球の関係があるのだと思います。知性からの愛への飛躍です。

*昨日とは打って変わった文脈ですが、明日の記述にはこの”飛躍”という感覚を
『マタイ福音書講義』(『イエスを語る』より)から引用してみます。

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