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ルドルフ・シュタイナーやゲーテ的な人間観が どう神道によって承認され、またその逆ができるのか、 人間とは一体何なのか、かなり意味不で判り難いブログ
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生き生きとした霊的な思想とは一体何でしょうか?
それは多面的に、霊的な思想を体験するという事です。
まずそれはドグマとは無関係なものです。

誰かがこう言ったから、どうだ、という事ではなく、
先入観無しに(自分の見解をも疑いながら)違う思想に生きる事だと思います。

シュタイナーは要求しています:     東洋の理解の最大の条件として、
自ら、異なる思想の中に(固有の)正しさを見出せるようにそれを観じるべきだと。

彼は、ニーチェ主義者で、ゲーテ主義者、ヘッケル信望者、しかし同時に
反ニーチェ、反ゲーテ、反ヘッケル主義者であり、視点が多面的なのです。
アジアを理解したいなら、その様な霊的な正しさを探す能力を身に付けるべきです。

岡田茂吉や大本、そして数々の霊的な衝動は私は後期神道と呼んでいます。
人によっては教派神道と呼ぶでしょうが、それは死んだものだと誤解されます。
この時代を貫いた霊的衝動は目に見えざるものであって、非常に多面的であり、
それはここで簡単に述べうるような限定的なものではないのです。

この時代を貫いた日本の霊的衝動は、この運動の多面性の中に霊的正しさを
自分自身で見つける良い修行だと私は思います。

その上でシュタイナーと岡田茂吉を較べてみましょう。
その前に私はシュタイナーと「賢治の学校」を例に取ってみましょう。:

「賢治の学校」は私は非常に嫌いです。何故かというと彼らはシュタイナーを
自分達の為に取り込んだり、単に利用しようとしている気がするからです。
あと、精神的な団体にありがちな関係者の「ダサさ」があります。
しかし宮澤賢治とシュタイナーは私から見ても幾分共通する所はあるのです。
私は宮澤賢治という人物が嫌いなのでは全くなくて、むしろ看板を掲げてシュタイナーの
懐に入ってくる人々です。彼らの団体行動する第一印象が良くないのかも知れない。
しかし一方、本当のところ、賢治の学校を単純に批判はできないのです。
何故なら、団体とは個人の集団的な現実・経験であって、もしその賢治の学校で、
誰かが”非常に”有意義な事を自分で学んだとしたら?? もしキリストを
信じる人なら、エッセネ派の教義がどんなものであれ、存在を許すでしょう。
何故ならエッセネ派がイエス・キリストにある一定の影響を与えたからです。
(第五福音書によればですが)キリストがあるのは、エッセネ派という準備が必要なのです。
これは結果論ですが、これが一番正しいものの見方です。大切なのは結果です。
だからある他の思想がどうなのかを簡単に知って思い込む事こそ危険であり、宮澤賢治や
誰それの”思想”とは”現実そのもの”とはかけ離れている事を心から判らねばならない。

私は岡田茂吉とシュタイナーを、最大公約数的に、最小公倍数的に表現したいと思います。
これは異なる思想の中に正当性を見出す事とは別の純粋に思想的な資料です。

#1 最大公約数的には 
唯物論に対する唯心論の回復
シュタイナー等のカリユガ論と岡田茂吉の夜昼転換論
BD農法と自然農法 : その精神的作業性
真・善・美に関する基礎思想(B)
本人による新しい霊的な思想の教示(A)
常識としての霊主体従(B)
物質の霊に基づく解釈
世界建設思想とカイン的な世界観(B)
旧フリーメイソンに対する研究(A)

#2 最小公倍数的には
唯心教育の拡大
実践による農法の研究と農業人の育成
霊子科学等の科学的な基礎検証

等でしょうか。(A)はシュタイナーの方が重きを置いている点。(B)は岡田茂吉の活動での
重要な点です。力点が違います。シュタイナーはヨーロッパ人、即ち木星の影響を受けます。
木星は注意深くあれ、と人間に呼びかけます。彼は霊的な学問を基盤に出発しています。
注意深くあれ、がシュタイナー運動の基本姿勢です。日本は火星の影響があると言われ、
岡田茂吉は最初から宗教(もしくは霊的治療)から出発していますから、寧ろ実践型です。


まず時代関係から整理しましょう。岡田茂吉とシュタイナーは色々と喩え易いです。
岡田茂吉はまずシュタイナーの死(1925)後、神秘体験(1926)に目覚めます。
それ以前は本人も言っていますが、病気がちであったり、会社の経営に忙しく、
寧ろそれまでは唯物論コチコチの普通の社長だったという事でしょう。しかし世界大恐慌
(1929)以前に既に大本に形だけは入っているようです。これは大本の知名度から
見てもそれ程不思議な事ではないのかも知れません。

岡田茂吉はシュタイナーの存在をシュタイナーの死後に本格的に知ったと思われます。
岡田茂吉は後に高橋巌と会っており、シュタイナー教育を日本に取り入れる計画も
あったと私は聞いています(要検証)。実現すれば日本で最初のシュタイナー学校
だった事でしょう。恐らく岡田茂吉の本格的な霊学への傾倒は、1929年の世界恐慌後
になると思います。そこで経済打撃を受けて立て直した後に、宗教生活へと引退する事
になります。47歳の時に大恐慌を受けていますが、49歳の時に夜昼転換論を知る事に
なりますので、この2年間が唯心論への大きな転機で人生の転換です。そこから
以後の運動を繰り広げる訳です。岡田茂吉は大本の御筆先を非常に重視しています。
大本の霊学を一部引き継いで、夜昼転換(一種のカリユガ論)を加える事になります。

分かれる前の大本は日本において非常に大きな運動でした。信者は相当数ありました。
その中には心霊学の浅野和三郎や友清歓真、谷口雅春など考えられない程粒揃いです。
その中でも岡田茂吉は霊能によって教団のお守りを作る作業をも担当していました。

ここまで書くとどうしても話が外面的になってしまい、私の論点から離れます。
『岡田茂吉における宗教と芸術』が、まさに内的に豊かに話されている様に、
内的に述べないと駄目でしょう。外面から述べるとそれはドグマになる傾向があります。
#2で最大公倍数的、と述べましたが、両者の方向は比較的近い所にあります。

宮澤賢治をシュタイナーに繋げるように、です。しかし岡田茂吉は浄霊医療など、
特に霊的な学問を独自に構築していますので、そう簡単に並べる事は難しいでしょう。
これは神道とアントロポゾフィーや生の仏教を並べる行為の様なもので、人それぞれです。

さて、#1について多くのネタを、大本教との関連においての様に、書く事ができるでしょう。
しかし私は岡田茂吉や出口王仁三郎とシュタイナーについて詳細について論じる責任と
義務がありません。 特に神道全体には、アントロポゾフィーでは得られない認識が、
数多くあり、火・水についての思想、西と東の見解は恐らくアントロポゾフィーよりも
神道の方が深いと思います。だからこそ共通のプラットフォームを自分の責任で
内部に作らなければならないと私は思います。自己責任において神道とシュタイナーを
繋げれば良いと思うわけで、昨今では若干そういう動きがあるようではあります。

例えば『超宗教』 医学・農業・芸術の革命児 岡田茂吉の霊子科学 中島 多加仁 (著) は
実際に人智学という言葉が出てきています。こういった本も次第に出てくるでしょう。

実際に、生きる、という事が重要であって、思想は一介の道具に過ぎません。
そういう意味で岡田茂吉という像が全てを巻き込んでいった運動全体は、
そこからどういう風に生きるのか、が重要であって、それはアントロポゾフィーでも同じです。

実際、出口王仁三郎も他の生長の家や真光云々も同じですが、岡田茂吉もシュタイナーも、
ただ他に影響を与える個性が実際に生きて、同感を唱える人がいる、という事です。
大き過ぎた個性が出現した後、私たちがどう評価するかは別ですが、当の本人達は、
時代を切り開き、世の中に対して何かを与えようとした熱意ある存在だった事は事実です。

今この両者を生かすとすれば、唯心教育なのだろうと思います。それが最小公倍数的です。
もう一つ、両者には霊的な科学というものもあります。私はそういう所は面白いとは思います。

最大公約数的な道(#1)、それは面白いかも知れませんが、シュタイナーに呑まれてしまう
かもしれません。何故なら人智学というのは一つの図式であって、知識自体が好きな人を
魅了しやすい可能性があります。これは大本も同じであって、神道を”響き”で捉えなければ
ならないという理由もここに存在すると私は思えます。第一神道の智というものは、殆ど、
正しい形では一般化されていません。学問の分野においても成立しないと思われます。

フリーメイソン学というものが知られていないように、神道やその他、日本の地元秘儀の
口伝というものは公には公開されていません。だからまた面白いのかも知れません。

そうですね、私が岡田茂吉に共感する所が本当にある思想面というのは、:

手塚治虫の漫画「火の鳥」では多くの輪廻・仏教の話が出くる。
仏魔が大陸から渡り、土着の神が征服される、という下りがある。
仏=魔神。律令(法)が日本に導入され、大仏が建てられた時で、
権力が世を治め、戦争と災いをもたらす新しき日本の世が明けた。

こういう語り口では、あの明治維新に譬えられるのかも知れない。
その転換期に立つのが、日本が太陽の昇る国の聖徳太子である。

さて仏教というのは釈迦がたった2500年前に作った教えだが、
太古の神々やアマテラス像はあまりにも深く日本に根付いていた。
(神武が人皇を名乗った時点でも時代は大きく変わってくる。)

こんな感じで、これは私が考えた導入です。さてここで岡田茂吉の観音説が続きます。

スサノオに蹂躙された日本において、アマテラス(または伊都能売神)がインドに逃げる、
そこで華厳経の通り、インドのフタラ山で菩薩となり善財童子(=仏陀)に教えを説いた。
それが岡田茂吉の「観音菩薩=最高神」論である。神>菩薩の落下避難論だ。

私はこの説についてどうこう言う訳ではないが、この私の導入は私自身気に入っている。
しかし観音菩薩は中国や東南アジアで熱心に信仰されている点を見ても、観音菩薩とは、
インド生まれの、東アジア全体の東の菩薩だと考えても差し支えないかも知れない。
ちなみにフタラ山というのは二荒=ニコウ=日光であり、日光というのは空海の命名のようだ。
岡田茂吉は空海を非常に重視しているようで、この辺も興味深い。

これ以上岡田茂吉や大本のような個別な思想について、特に取り上げる事はしないが、
最初から言っているように、平和思想を実践する意味において、内面から生きる事が
大事だと思われる。そこに思想の差別なく、看板もまたそれ程要らないのが、私には
気に入られる。私は互いの思想自体をより近づける事を意図する”結び”が重要であり、
シュタイナーが日本の霊性と現実的に自然にどう結びつくか、興味ある所である。

今日で東洋=西洋の最近の論議をおしまいにする。明日からはクリスマスという事もあって、
キリスト的な霊性を考える事にして年末・年始に備えたい。。。ケーキ万歳^^

オマケ

アントロポゾフィーにおける東洋の敷居として、僕は数々の思想の中に真実を見出す姿勢を
厳重に課したい。日本の霊学思想の混乱は人の恥だと思われる。同じ様にアントロを
道具として導入する場合、この姿勢が無ければ東洋と日本を見出す事はなく、非現実に至る、
という事を、まさにシュタイナーと同じ立場で、アントロ人に先に言っておきたい。それ程、
厳格になる事はないと思うだろうが、宗教は怖いのではなく、ドグマこそ怖いのだ。私は
キリスト教の聖書が好きだ。しかしドグマに対するドグマはアントロには入れたくない。
私は賢治の学校が何となく嫌いなのであるが、その意義と価値は無制限に尊重する。
(私には賢治の学校出身の友人も沢山の知人もいるが、一度も悪く言った事はない。)

このRhysmというブログも、流れるISMであり、絶対でありえない。キリストの代理であった
ユダヤ教は月の霊統だとシュタイナーは言う。同じ様に岡田茂吉も月時代を認識している。
一つのユダヤ教が月の時代には真実であって、次の時代には通用しなくなるという事も、
ISMは流れなければならない事に矛盾はしないだろう。どちらにせよ、シュタイナーも
東洋の霊統もミロクが未来に訪れるのを意識している。貴方が道具を握るのだけは不変だ。

ここでいうと思想というのは剣の働きをする。
だから人はなるべく切れるの思想を手に入れようとする。
自我も同じ事で、斬る事も活かす事もできる。
道具を誇っても全く仕方ない、それよりもより産まねばならないと思うのは、
僕だけだろうか?産んでこそ価値がある。
その辺はまさに男であって、女性の出産とは逆の働きをする。
難しいよな、と思う。アントロポゾフィーも寧ろ(形式は)科学であって、
数学のようなものだから、それには何の意味もないのだ。
1+1=2 と発言するよりも、熱心さと意志をやはり評価したいと思う。

BD農法は自然農法に較べ、恐らく、何倍もこの点で遅れている。
BD農法の本当の真髄というのは、畑での種に対する愛情なのだと
シュタイナーが述べている様に、農場に於ける精神(霊性)であって、
理論は、現場(ドルナッハ)に行けば人が言うように、今は知りえないものなのだ。

ここでも如何にドグマを離れて活動しなければならないのか判るだろう。





 

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