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ルドルフ・シュタイナーやゲーテ的な人間観が どう神道によって承認され、またその逆ができるのか、 人間とは一体何なのか、かなり意味不で判り難いブログ
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日本に帰ってきて気づく事があります。
実は最近まで確信が持てなかった事です。
それが今日の話の切り口です。

最近、テレビ・映画・ニュース・エンターテイメントがツマラナイと思いませんか?ということです。
そういう事でいえば、ネガティブな話だと思われるでしょうけど、実はポジティブでもあります。

90年代に私は学生をしていたのですが、心理学なんかが非常に脚光を浴びていました。
今はどうなんでしょう?シュタイナーも流行っていましたよね。宗教なども時代の脚光?を
浴びました。日本では、こころの時代、が歩を大きく進めたエポックだったと思います。
今では「スピリチャル」なんて、「カフェ」と同じ様な響きで普及し、スピリチャルがまるで、
優しい、エンジェルがかった、<雰囲気>に堕しています。仕方ないでしょうけど。
しかし昔で言う、MODE、とはもっとよりハッキリして、個性的であって良いと思います。
最近は心理学がどうの、哲学が、、とか聞かないですが、どうなんでしょう。タケシが、
深夜数学の番組していますが、発想は昔から変っていませんが、面白いと思います。
ニュースもそうですし、エンタもそうです、、、、”ネタ”の創造、がどっかで枯渇してる?
と思ってしまいます。精神的な何かが枯渇し、
昔の懐古ネタが多い。アニメもそうです。
発展とイメージは時代によく現れますが、どんなMODEも過去を背負っているものでしょう。

だからネタが尽きてくるというのは、一体どういうことなのだろう??と考えています。

で、色々考える訳です。―――ああ、例えば尾崎豊なんて流行ったなぁ、とか。
今、ああいう雰囲気ってどうなったんだろ?と。10代の心持は別として、、、。
彼は比較的インテリですよね。本棚には『モモ』が並んでおり、心理学なんかもあったと思います。
10代の頃、とてもよく考え、見抜くタイプだったから、凄く受け入れられたのだと。
今、それぞれの心の中に生きた尾崎豊は、どうなったのだろうか?『若かった、流行でした』じゃ、
何となく、存在する意味がないですよね。同様に、昔に流行った時代の『道徳心や果実』である、
作品や名映画、本、今でも「心の基準・糧・価値観の基礎」になっているものがありますよね?

イメージ力は最近になって優れていると思います。ですので、ポジティブなMODEも
色々あって、皆さんも熱中するものをお持ちではないかと思います。
シュタイナーは既に哲学や発想・概念の衝動の資源は枯渇していると指摘しています。
19世紀・20世紀までにあれほど革新したこの地球世界にも、発想・概念の資源が
尽きはじめている、と言っているのです。まるで現在の資源・エコブームの様に。

さて、そのイメージの話です。これが今日のネタです。
哲学や学問衝動自体に、最近ふと思った事なのですが、その意味です。
考える事と人間の知性に関して、神道とアントロを考える上で、色々思うわけです。
「そんなこと、知ってどうなる?」「考えても無駄。」「哲学?」
それは生活の一部で必要な単なる思考能力ではあっても、一方学びたい意欲は純粋でしょう。
それは価値観の問題ですので、学ぶ事がどれほど人生で重要なのか、違ってきます。

現実にとって、思考は、”有用”という意味でしか価値がないと考えるのは、寒い。
そういう意味で哲学(*個人哲学も含む)とはその人物にとって無意味なのか?

私が最近ココ5年くらい気になっているのは、エデン、楽園追放です。
神道が示す将来の展望もそれと同じ様に、纏りあって興味があるのです。

原罪についての知識が具体的なものです。一部の神道も同じく、カルマを認識しています。
それはカルマを世間化したのが仏教なのですが、もともとそれは仏陀の知性からでは
なかったのでしょうか? 考える、ということの影響が、仏教を始め、印哲の起源です。
しかし、原罪は私的な疑問で十分です。それは私の場合、私的な疑問ですので。
原罪に関する何かを出版するということであれば、それは私的というよりは別の事です。
そういう意味で、子孫や人間の生殖、思春期の思考、人間の歴史に興味があります。

人間は何故生まれたのか?むしろどのようにして生まれたのか。
死は何故訪れるのか?むしろどのように生や遺伝子が営為するのか?
そういう事に答えを求めていませんが、自分なりのヴィジョンがあってもいいと思います。
それが生きる一つの根拠になるのなら、進んでそれを知ろうと思います。

そういう人間そのものに対する疑問は考え出したらとめどなく出て来ます。
ですのでイメージが湧き、メモを書くわけですが。。

精子が卵子の核に突入するその過程は、
丁度、思考力が植物の様に根を張り、自分の根源を探し出しているようだ。。ということです。
つまり人間の思考力とはシュタイナーで言うと、植物の根に相当していますが、男性優位の
(表向きの)思考力はまるで精子のように、原始の女性性に向かって突入します。

ともあれ、人間の思考力の、その哲学面は、どの心理的な本源を有しているのか、、、
それはスサノヲがイザナミを慕うような、何かに帰している、そんな気がしています。
特にスサノヲではなくてもよく、それは神話の形態がふさわしい、と思える何かなのでしょうか。。
もしくはアダムかエロヒムか、がリリスに抱く本能なのでしょうか?

ニーチェの様にその神話的な形象に道を失う訳には行きません。そういう神話解釈には3つあり、
日本神道や古伝・神話を、無理矢理に解釈する人が1つ。ニーチェの様にそのまま時代の映像を
著作に反映する場合が1つ。あとはどちらにも至る力がない場合が1つでしょう。
前者はナンセンスとしても、後者の2択を真実に向かって超えて行く事が当面の目標になります。

種の秘密。  その把握が恐らく、次の時代を開くものだと思っています。
幸いアントロでは、「いか超」において、植物の種を使用した、修行方法があります。
例えば、種の把握として、「農業講座」のように、種の中の”宇宙”をイメージするのも、
いいと思います。種の中の宇宙と生命の神秘は、まさに、神道の”ス”の通りなのです。

 単に機械的に種を把握するというのではなく、生命を自分の根本として探求する事に、
何かしらの衝動を感じています。死と生、物質と精神。。。そこには人間の1つの存在理由が
あってもいいと思っています。

 

 










 

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